毎日ひとつ

伝える力UPと、発信恐怖症克服のため、卒業まで毎日感じたことや考えたことを発信します。多分。

郷に入っては郷に従え

 

こんばんは。

 

今日は卒業研究としてやってきた、

膜沸騰の研究の発表会でした。

終えてみると研究も面白かったなと感じています。

 

 

郷に入っては郷に従え

 

その土地やその環境に入ったならば、そこでの習慣ややり方に従うのが賢い生き方である、などの意味の表現。「 郷に入っては郷に従え」などとも言う。

 

こんな言葉があると思いますが、僕の大学生活は全然、

郷に入っても郷に従っていなかったなと思います。

 

ぼくは海事科学部という学部に所属しており、

乗船実習で1ヶ月航海をしたり、

ヨットやカヌーなどの実習を経験しました。

 

単位はとっていましたが、

学部の勉強が少し古臭く感じてしまい、

その他の活動に精を出していました。

 

4年間の学生生活を経て

そういった特殊なことを学べることの良さを感じるようになり、

4年の前期には自分の興味のある授業を取りに行ったりするようになりました。

 

結局、一年生の頃からもう少ししっかり、

学部の勉強をしていたらよかったなと後悔する始末です。

 

 

 

所属していた部活についても、

似たようなことを感じています。

 

その部活では、

英語の部活にも関わらず、

エンターテイメント性をすごく重視します。

これは創設以来70年近く続く伝統だと聞いています。

 

ぼくは英語力を伸ばしたかったため、

そのような伝統について、

あまり好ましく思っていない時期もありました。

 

しかし、最近になって、

まだ馴染めていない後輩のために、

どうすれば楽しませられるかと必死に考える、

あの姿勢からは学ぶものがたくさんあったなと、

自分の考え方を改めています。

 

先輩がしてくれていたことを、

同期が後輩にするようになり、

また後輩もその下に受け継いでいっている。

 

70年という時を経て尚、

残り続けるこの伝統から学べることは多いに決まっています。

もしそうでなければ、どこかで間違いなく途絶えています。

 

郷に入った時には視野が狭く、

何が大切かを正しく判断することは、

難しいのではないかと思います。

 

だからこそ、

自分の頭で考えることも大事ですが、

入ったからには、一度思い切って飛び込んでみる、

ということも非常に重要だと感じています。

 

社会人になってから会社に所属しても、

やる前から色々文句をいうのでは無く、

少なくとも一度は全力でぶつかってから、

判断するようにしたいですね。

 

 

 

 

今日は、学部の友達とご飯にいってきます。

ありがとうございました。

シャワーが欲しい。

 

こんばんは。

 

先日タイに行ってきました。

タイには諸事情でよく行くのですが、

日本へ帰ってくるときはいつでも深夜便に乗ります。

 

その際に、いつも困ることがあるんです。

 

 

 

それは

 

シャワーを浴びられないこと

 

 

タイは暑いので汗もかきますし、

それでなくてもぼくはシャワーを浴びないと少し気持ちが悪いです。

 

銭湯は無いし、

シャワーだけのためにホテルの一室を借りるのも気が引けます。

 

 

「日本はキレイな国だ」ということをよく耳にしますが、

この感覚は日本人特有のものなんでしょうか?

他の国の人のことはちょっとわかりません。

 

 

とにかく、

タイのバンコクの空港にはシャワーがありません。

(ラウンジを使えばあるのかな?)

 

 

マレーシアにトランジットで寄った際には、

ラウンジを利用したのですが、

そこのシャワーはトイレと同じ部屋で、

床も濡れていて少し使う気にはなれませんでした。

 

 

 

 

そんなことを考えながら羽田空港に着きました。

乗り換えまで少し時間があったので、

カフェに行こうと思って歩いていたら、

 

あったんです。

 

 

 

 

f:id:jteppei:20180301195609j:plain

 

思わず写真を撮ってしまいました。

 

感動しました。

さすが羽田空港

さすが日本。

 

しかも、少し調べてみると

 

※タオル、シャンプー、リンス、ボディーソープ、ドライヤーを各室内に備えております。

 

ドライヤーまで備わっているんです。

清掃も行き届いているようで言うことありません。

1000円ぐらいしますが、ぼくはなんの迷いもなく払います。

 

 

このシャワーのことをタイ人の友達に聞いてみたら、

「気づいていなかったけど、あれば利用したい人は多いと思う。」

ということでした。

 

 

ぼくにとってシャワーは大事なんですが、

その大事さの度合いって人によって全然違うと思うんです。

 

日本人の感覚とか、自分の感覚が他の人とは違うからこそ、

発見できた潜在的なニーズなのかなと思います。

 

「日本人は清潔でいることを気にしすぎ」とか、

「男のくせにシャワーごときで女々しい」とか、

思われる方もいるかもしれませんが、

 

「みんなと感覚が違うから、我慢しないと。」

じゃなくて、そういう違いを寧ろ追求して行くと、

少なくとも幾らかの人にとっては、

プラスになるんじゃないかと思います。

 

それが色々なところで起これば、

結果的にみんなにとって快適な世の中になるんじゃ無いかと思いました。

 

 

あ、そういえば、

 

帰りの飛行機の隣の席にはご高齢の方が座っていました。

 

夜中なので寝ていたのですが、

彼はずっとごそごそ動いていたため、

起きてしまいました。

 

しばらくして、どうしたのか聞いてみると、

目の前のモニターの消し方がわからないとのことでした。

 

四角いボタンを押せば戻れたので、

ぼくにとってはなんてことないのですが、

彼にとってはよくわからないものだったようです。

 

よく考えてみると、

生まれた頃から機械を触っているから、

全然気付かなかったですが、

「□は停止ボタン」って慣れていなかったら

わからなくて当然ですよね。笑

 

 注意してみると、

自分だけが気づく不便さっていっぱいありそうですね!

強くなければ優しくなれないのか?

  

ぼくにとって魅力的な人は優しい人です。

 

小学生の頃から、

意思に反して何かを強要されることが大嫌いです。

 

 小学3年生のクラスでは、

「色鉛筆は、一本ずつ削りにいきなさい。」

というよくわからないルールがありました。

ぼくは納得いかずまとめて削りに行き、

先生にものすごい勢い注意されました。

なぜダメなのかを聞いても、

納得のいくまともな答えが返ってこず、

小学生ながらすごく嫌な思いをした記憶があります。

 

今でも、 

権力を振りかざして偉そうにしている人が苦手だし、

自分が人に偉そうにするのも苦手です。

 

こういう性格だからこそ、

意思を尊重してくれる優しい人に憧れるし、

ぼくもそうなりたいという気持ちがあります。

 

そして、

優しくなるために強くなりたい

そう考えていました。

 

しかし、

昨日後輩と話していて「強さ」の捉え方が

ズレているのではないか感じたので、

改めて考えました。

今日はそのことについて書いてみます。

 

 

ぼくにとっての優しい人は、

「相手の意思を尊重し、選択肢を与えれられる人」

だと考えていました。

 

「選択肢が与えられない」状況を説明するために、

よくこのような例えをしていました。

 

奥さんが職場に馴染めず、

精神的に参ってしまっても、

自分の稼ぎが少なく、

奥さんの収入なしで生活できなければ、

「辞めてもいいよ」と言ってあげられない。

 

子供が学校でいじめられていても、

自分が転職し会社を移る力がなければ、

「転校してもいいよ」と言ってあげられない。

 

自分の大切な人に、

「辞めてもいいよ」とか、「転校してもいいよ」

という選択肢を与えられるお金や地位を持っていることが、

ぼくにとっての強さであり、

障害を取り除き、違う選択肢を与えてあげることが、

優しさだと考えていました。

 

 

でも、

「強さ」って本当にこういうことなんだろうか?

そもそも、辛い思いをしている人が求めていることって、

強い人に嫌なことを取り除いてもらうことなのだろうか?

自分はダメな人間だと考えてしまうことにはならないだろうか?

こんなことを昨日話しました。

 

相手の求めていることを聞きもせず、

わかったような気になり、

自分の解釈を人に押し付けることは、

よくないなと思ったことがあります。

 

ぼくには両親が離婚した友達がいます。

ぼくはその話はあまり触れるべきではないと判断していました。

他の友達がそのことについて彼をからかう姿を見て、

嫌じゃないのか疑問に思いましたが、

本人は気を使われることの方が嫌だと考えていました。

 

その時、ぼくは相手の気持ちをを知りもせず、

離婚=悪いことという風に勝手に解釈し、

触れないことが正しいと判断してしまっていたのだと気づきました。

 

ぼくが考えていた強さは

勝手に相手の気持ちを解釈して障害を取り除いたり、

自分にとって正しく見える道に引っ張ってあげられることでした。

f:id:jteppei:20180228165151p:plain

 

しかし、

すごく良いことのように捉えていた、

「転校してもいいよ」という楽になれそうな選択肢を、

本人が本当に望んでいるのかはわかりません。

 

そして、結局、

子供がいじめられて苦しんでいるという厳しい現実に向き合い、

自分が傷つくのを恐れているだけなのかもしれないと気づきました。

 

 仮に転校したいと考えていたとしても、

そこで手を差し伸べることで、

本当の問題が解決できるとは思えません。

 

湯を沸かすほどの熱い愛を観たことがありますか?

あのお母ちゃんの、

「いじめ」や「生みの親との再会」の場面で娘に見せた、

あの姿勢こそが強さなのではないかと思います。

 

まだ大人ではなかったので、

お母ちゃんが導いていましたが、

心配になりながらも、

娘が乗り越えられると信じ、

学校に怒鳴り込んだり、

母親同士で話をつけたりはしませんでした。

 

恐らく手を差し伸べる方が楽だったと思います。

 

しかし、

お母ちゃんが心配になりながらも娘を信じ、

いじめに立ち向かわせたからこそ、

困難を乗り越えていく強さを獲得できたのだと思います。

 

辛さや悲しさを聞いた上で選択肢を示し、

たとえ険しい道であろうとどうしたいのかを尊重する。

 

そして、

不安でもじっと耐えて乗り越えられると信じ、

後ろから見守っていられることこそが、

強さなんじゃないかと思うようになりました。

f:id:jteppei:20180228165036p:plain

 

 

 

 

 

強くなければ優しくなれない

これには同意します。

 

ただ、本当の強さとは、

「お金」や「地位」や「権力」を使い

上から目線で様々な障害を取り除いてやることではなく、

 

 

相手の意思を尊重し、不安でもじっと耐えて、

乗り越えられると信じながら見守っていられることなのだと思います。

 

4日目を終えて振り返り

こんばんは。

 

今日はESSの後輩ふじこうとご飯に行ってきました。

行きの電車でモチベーション革命という本を読んでいたのですが、

彼はその中に出てくる乾けない世代の代表的な考え方をしています。

 

ぼくよりも「好き」を知っているし、

その上での理想を考えられていて本当に尊敬します。 

学ぶことだらけの楽しい時間でした。

 

 

 

今日はこのタイミングで一度振り返りをしてみようと思います。

行動してみてどう感じているかを素直に書きました。

なんと目次の使い方を覚えました笑

 

目次

 

 

 

 

全体的な感想

 

やってみてよかった!というのが素直な感想です。

よかったレベルでいうとぐらいです。

10のうちの残りの2は時間の使い方にまだ慣れず、

時間がかかりすぎてしまうことがあるからです。

 

当初の目的とは違いますが、

一番嬉しかったのが、フェイスブックやラインで直接コメントをくれる人がいたことです。

 

コメントまでなくても、関わりが薄くなってきてしまっている人の中に、Likeを押してくれる人がいて本当に嬉しかったです。

 

改めて周りの方々に恵まれていると感じましたし、暖かい気持ちになりました。

結局、「発信することは怖い」とやる前から決めつけていたのはぼく自身だったと思います。今では、あまり怖さを感じなくなりました。

 

一方で、誰からも批判の出そうにないテーマを、

選んでいるからということもあります。

 

発信恐怖症を克服するという意味では、

このままブログに記事を投稿するだけでは、

期待する効果が得られないかもしれないと感じています。

 

ブログという手段を続けるにしても、

もっと自分の立ち位置をはっきりさせると、

もっとダイレクトな反応が返ってくると思います。

例えば、「同性結婚について賛成か、反対か?」

ということについて反対と言うにはもっと勇気がいります。

どこまで踏み込んだことを発言するのかは慎重に選びつつ、

一番心が踊る行動を選択していきたいと思います。

 

 

伝えるために大事だと感じたと

 

ここまでで感じた、

伝える上での自分の課題を振り返ってみます。

 

例えが下手くそ!

たとえ話で伝わり方が全然違うと思う。ただ、考えていることをたとえ話に変えた途端、矛盾が発生してしまうことも多々。ここが上手にできる人は共感を集められるんだろうと考えています。

 

矛盾だらけ!はじめに論理を組み立てよう!

書いていて、論理の矛盾に気づくことがよくあります。この表現いいかも!と思って書いていたら、その表現が気に入り固執してしまうことがあります。そうすると、だんだん初め言いたかったことからずれてしまいます。だからこそ、最初にしっかりと筋道を描き、論理に矛盾がないようにすることが大切だと感じました。

 

自分の実感が伴っていないと伝わらん!

時々、実感のないところまで考えて書いてしまっていました。専門的な知識がないのに、未来を描いても共感してもらうことは難しいです。普通に未来を知りたければ専門家の記事読みますよね。書くとしても、圧倒的に自分ごととして書かないといけないと感じました。

 

言葉の定義に穴だらけ、、

昨日の話に出てきた、

ぼくにとっての「しなければならない」という感情にも

  • 洗濯物のように、なくなれば嬉しいなと感じる「しなければならない」
  • 勉強のように、あった方がいいと感じる「しなければならない」
  • 挨拶のように、心理的に感じる「しなければならない」

といった風に、しなければならないにはたくさんの意味合いが含まれます。

そこの一部を切り取って「しなければならない」を定義してしまうと、

納得感が下がり伝わりにくくなると感じました。

 

昨日の記事

 

jteppei.hatenablog.com

 

 

その他の学び

 

伝えること以外に関してもいくらか学びがありました。

 

やっぱり「したい!」は結構大事だ

発信恐怖症を克服したい!

上手に伝えられるようになりたい!のように、

「したい!」で行動してみてよかったなと感じています。

これもバランスが大事だと思いますが、

今までは「したい!」をないがしろにしすぎました。

途中何度かこれなんでやっているんだろうと感じましたが、

「したかったから」という明確な理由に

立ち返ることができたことは大きな支えでした。

これは新たな発見で面白かったです。

 

アウトプットとインプットの比重

アウトプットをするようになって、

より自分がわかっていないことがわかりましたし、

素直に興味の湧く学びたいこともわかりました。

「アウトプットが大事」

なんとなく聞いてはいたけど、

より実感できたのでこれも面白かったです。

 

ぼくはインプットだけだとダラダラしちゃうし、質が保てません。

アウトプットだけでも発信するものに深みが出ません。

 

ここの配分をいいぐらいに調整できるようになりたいです!

これから4日間、決めた配分でやってみてまた調整したいと思います。

 

 

 

 

そろそろぼくに対する飽きも出てくる頃だと思いますので、

もっとみたくなるような魅力的な発信をできるよう精進します!

ありがとうございました。

ぼくはずっと寝ていたい

 

こんばんは。

 

昨日は、

妹の受験がとりあえず一段落したので、母と3人でご飯に行ってきました。

一生懸命頑張っていたので、無事終えることができてとりあえずホッとしています。

ちなみにこちらが投稿に出てきた、我が家の愛犬ビッキーです。

f:id:jteppei:20180226135325j:plain

 

 

 

「ぼくはずっと寝ていたい 」

 今日はこんなタイトルで書いていきたいと思います。

 

ふざけたタイトルですが割と真面目に書きました笑

 

 

ぼくは寝ることが大好きです。

朝、「もう少し寝ていたいな。」

って思うことがしょっちゅうだし、

12時間以上寝ることも可能です。

 

「やってしまった。。」

起きた時こんな風に感じることはありませんか?

 

ぼくは12時まで寝てしまうと、

大変な罪悪感に駆られます。

 

でも、寝ることはぼくにとっての幸せです。

しかし、自分で自分の幸せを否定してしまう。

ぼくは幸せになりたくないのでしょうか?

 

他にも、

遊ぶことが大好きで幸せを感じられるのに、

いっぱい遊んだ後はいつも罪悪感に駆られる。

という方もいらっしゃるのではないでしょうか?

  

幸せになりたいのに幸せになることを自分で否定してしまう。

好きなことをするのがまるで悪いことみたいになっている。

これってなんでなんでしょう?

 

「罪悪感」

ぼくが思うに、この気持ちの正体は、

 

「宿題をしなければならないのに、こんなに遊んでしまった。」 

 

という風に、

「しなければならないけどしなかった。

の感情なんだと思います。

 

 

実際に、世の中しなければならないことが多いですよね。

  • 勉強をしなければならない
  • 洗濯をしなければならない
  • 満員電車に乗らなければならない
  • お金を稼がなければいけない

特に仕事をしている人の心の中は、

「しなければならない」が多くを占めているイメージです。

 

みんなが「しなければならない」を怠り好きなように

自分の幸せを追い求めれば、大変なことになります。

「しなければならない」をしてくれている人がいるから、

世の中は今日もまわっています。

 

 

 

しかし、仮に世の中から「しなければならない」を無くすことができれば、

ぼくは好きなだけ寝ても罪悪感は感じずにすみます。

 

ぼくがもっといいなと望むのは、

「寝ていたい」よりも魅力的な「したい」を見つけ、

「したい」で目覚めることです。

 

 

遠足の日の朝は、ワクワクして自然と目が覚めてしまったり、

クリスマスの朝はお父さんお母さんよりも早く起きて、

「ねえ、プレゼント来たよ!」と、

寝室まで起こしにいっちゃうあの状態です。

 

 

世の中から「しなければならない」ことが減り、

「したい」にもっと目を向け、

ワクワクして暮らせることがぼくの最高の理想です。

 

 

 

 

 

だけど困ったことに、やっぱり世の中は、

「しなければならない」ことだらけ。

世の中は前向きな「したい」こととか「好き」なこと

は「しなければならない」ことに追いやられています。

 

でも、少なくとも

世の中の「しなければならない」は、

減っていっているような気がしています。

 

他の動物に食べられないように、「戦わなければならない」

ことはまずないですし、

洗濯物のために、「川まで行かなければならない」

ことはなくなったし、

「冷たい水に手をいれてゴシゴシしなければならない」

こともなくなりました。

 

ぼくが生まれてからでも、

たくさんの「しなければならない」

が解決されるのを見てきました。

アマゾンでポチッとすればなんでも届く世の中になりました。

 

実際、

 

オフィスには行かずに仕事をすることが可能になり、

「満員電車に乗らなければならない」は

なくなっていくかもしれないし、

 

ベーシックインカムが導入されれば、

「働かなければならない」さえなくなり、

「働きたい」人だけが働けばいい世の中になるかもしれません。 

 

先人の努力のおかげで、

世の中はここまで良くなってきました。

 

「しなければならない」が減り、

自分の「したい」や「好き」という前向きな気持ちを、

否定せず大事にできる世の中が、

少しずつ近づいてきているのではと思います。

 

f:id:jteppei:20180226212407p:plain

 

「好きなだけ寝ていても罪悪感を感じない世の中」

もっと言えば、

「ワクワクして勝手に目が覚めちゃうような世の中」

になれば最高だなと思います。

 

だからそれまでの間、

12時間寝ることは一旦我慢して、

自分の解決したい、

「しなければならない」

をいかに減らしていけるか

に微力ながら向き合っていくことにします!

 

 

 

 

 結論に至ってから思ったけど、

この発想って「生きることは苦行」としている、

仏教の感覚とは少しずれているのかな?

 

仏教の考え方が根付いている日本では、

「楽なことだけの人生なんて、生きている気がしない!」

って違和感を感じる方も多いのかな?

 

そもそも仏教に対する理解が不足しているのか、

人が楽になるような方向へ世の中を動かしていくのが間違っているのか、

時代と仏教が合わなくなってきているのか、

 

どうなんだろう。。

勉強します!笑

 

世の中を知らない学生の夢物語でした。

今日もありがとうございました。

好きなだけダラダラしていて気付いたこと

 

こんばんは!

いいねや前向きなメッセージをいただけて本当に嬉しいです。

ありがとうございます。

改めて、ぼくに関わってくださる方々に感謝し、

また、感謝を行動で示していかないとなと思う日々です。 

 

 

今日は、

「好きなだけダラダラしていて気付いたこと」

について書いてみたいと思います。

 

 

就職活動を終えてすぐの頃は春休みで、

バイトもせず、部活もせず、授業もなく、

約1週間ほどひたすらダラダラ生活をした時期がありました。

 

 

実はこの頃はまだ、「なぜ働くのか?」

という問いに対してスッキリしていませんでした。

 

  • 生活するためにお金が必要だから。
  • 優しい人間になるために強さが必要だから。

 

この2つは意識していたけど、

これらは「自分のため」の理由であり、

誰かの何かを解決してあげたいという気持ちがよくわかりませんでした。

なんとなく面接では話していたけど、実感が伴っていませんでした。

 

 

 

働く理由はこれだけ?

働かなくてもいいなら働かない?

やりたくないことをこれからやり続けることになる?

 

 

たまたま考える時間がたくさんあったので、

こんなモヤモヤを胸に抱きながら過ごしていました。

 

 

そんな中、

働かずに好きなことを好きなだけして、

「してもらうだけの生活」

を送っていて気付いたことがあるんです。

 

 

 

その当時の生活は、

 

 

 

朝、仕事に行く前の母に起こしてもらい、

朝ごはんを作ってもらってから、

「いってらっしゃい。」と見送ります。

 

 

そこから映画を観ては居眠り、

読書をしては居眠り。

これを繰り返し、

夕方6時ごろに仕事から帰ってくる母を

「おかえり。」と出迎えます。

 

 

そこから母は急いで、晩御飯の用意をしてくれます。 

 

 

そして、お風呂に入り寝る。

 

 

毎日毎日この繰り返し。

約1週間続いたと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

家事を手伝わせてほしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ダラダラ生活を続けて、込み上げてきた素直な感情がこれでした。

 

 

 

 母がお世話をしてくれている。

ご飯を食べれば、食材が要る。

お風呂には入れば、水も電気も使う。

テレビ、歯ブラシ、ドライヤー、服、

これら1つ1つのおかげで自分は快適な生活ができていて、

それらを生産してくれている人がいる。

 

 

 

それらを得られるだけの何かを自分は還元できているのだろうか。

 

 

 

自分は何も返せていない。

何かの役に立ちたい。

 

 

 

 

今までは頼まれて少し面倒に感じながらやっていた家事を、自分からやりたいと思うようになっていました。

 

それからは、 

餌をやって、犬のビッキーが「喜んでくれる姿」が嬉しくて、、

洗濯物を取り入れた時にもらえる「ありがとう。」が嬉しくて、、

  

 

普通に生活してたら考えもしないことだけど、

 

 

ビッキーに餌をやることは、

「してあげてる」という風に捉えていたけど、

「させてもらってる」なのかもしれないなと。

 

 

結局ぼくは、

 

 

「役に立っている」

 

 

っていう感覚に幸せにしてもらっているんだなと感じました。

社会の一員として役に立っていると感じたいんだろうなと思いました。

 

 

そこに気付いてからは、 

「何を得られるか」という考え方から、

「何ができるか」という考え方に変わりました。

 

 

飲み会に誘ってくれてありがとう。

頼み事してきてくれてありがとう。

 

飲み会でこのメンバーだったら楽しくないかもな。

じゃなくて、

どうすれば楽しませられるんだろう。

 

頼みごとに応えて何を返してくれるんだろう。

じゃなくて、

どうすれば悩みを解決できるんだろう。

 

 

 

 

 

今、ぼくにできることは多くありません。

だからこそ、役に立てる人間になりたいです。

ビッキーが生きているだけで、ぼくに幸せを与えるように、

できることが多くなくても、人は誰かの役に立っていると思います。

 

ただ、

「何かの役に立てることが幸せ」だと気付いたから、

ぼくはもっと役に立てるようになりたいし、働きたいです。

 

 これが、今考えている「なぜ働くのか?」に対するもう1つの答えです。

 

 

 

社会人になれば自分の考えの甘さに気づくかもしれません。

だけど、学生のぼくはこう考えているということを大事にして、

今後どんな変化があるのか楽しんでいきたいと思います。

 

 

 

 今日も長くなってしまいました。笑

読んでくださり、ありがとうございました。

 

 

英語を4年間やってみて、今思うこと。

 

こんばんは!

昨日お伝えした通り、ブログを始めております。

 

どういうテーマで書いていきたいか、少し考えました。

 

もうすぐ大学を卒業するのですが、

この節目の時期だからこそ感じていることが沢山あって、もっと早く気づけていたらよかったなと思うことばかりです。

 

そこで、今日はタイトルの通り、

英語を4年間やってみて、今思うこと。

について書いてみようかなと思います。

 

 

ぼくは、大学に入学してから今まで、

英語の勉強、特に英会話に、時間もお金も全力投下してきました。

ぼくの英語力がどれほどのものなのかという話は置いておいて、

大学生活で一番注力してきたことは間違いないと思います。

 

 

でも、

 

英語を使って何をやりたいの?

英語は伝える手段でしかないんだから、

伝える価値のあるものを身につけることの方が重要じゃないの?

  

こんな投げかけに不安になることが何度もありました。

 

 

ぼくが英語を始めた動機は、

 

  • 英語を使いながら働いている父への憧れ
  • 武器になるものを作りたい

 

この2点でした。

 

 

〇〇をしたいから、英語を勉強する。

 

というようなゴールから逆算して、

そのゴールにたどり着くために必要な手段として勉強する。

というものではありませんでした。

 

ただカッコ良さそう!とか将来使えそう!

のように深く考えずに気持ちに素直に進んできちゃったんです。

 

 

 

でも、迷いもなく、自信を持って楽しくやれていました。

 

 

 

 

就職活動をはじめるまでは、、

 

 

就職活動を機に、

一気にガラガラと音を立ててあったはずの自信が崩れていったんですよね。

 

 

その大きな理由の一つが、

 

「君は何をやりたいの?」

 

この問いかけだったと思います。

 

 

 

武器を作りたいって思ってやってきたけど、

 

武器って闘うためのものじゃん。。

とりあえず闘うことは決まってるけど、

何と闘いたいか考えず、格好いいから太刀作っちゃった。。

 

戦いたい相手が龍とわかって初めて、

 

あれ、、

 

龍空飛んでね?

太刀じゃ攻撃できないじゃん。。

 

ってならない?これ。

 

あ、、、

 

何と闘うかまず考えなあかんかったやん。。。。。。

 

 

って感じです。

 

 

「何と闘うか、まず考えるべき。」

 

これは結構正しいと思います。

何をやりたいかを考えられた方がムダがないですし、

就活では特に求められているなと今でも思っています。

何よりも周りの逆算して選択と集中をしている人はやっぱり強いです。

 

 

でも、振り返ってみると最善かどうかは分からないな。

と感じています。

 

だって、

考えてみると英語を学んできていいことがたくさんあったから。

 

ギターを練習したい!と思った時に、見つけたYousicianというアプリ、

 

瞑想をやってみたいと思った時に、見つけたHeadspaceというアプリ

 

どちらもやりたい!と思ってアプリを探した際に、

一番良いと感じたものですが、英語が分からなければ使えませんでした。

 

何より、

「やりたいことを見つけたい」という

「やりたいこと」が見つかった時に、

 

英語はぼくにタイでインターンをするという選択肢をくれました。

そこでの素敵な出会いが、やりたいことを見つけるヒントにつながりました。

 

他にも例を挙げたらきりがありません。

 

「やりたいこと」が見つかった瞬間に、英語はぼくにとって頼もしい武器になりました。たくさん良いことがあったし、楽しかったし、大満足!!

と考えられるようになりました。

 

ゴールから逆算して、

選択と集中をすれば、ムダがなく最短でゴールにたどり着けそうだけど、

逆算をしなかったからこそ巡り会えた、良いこともたくさんあったはず。

 

太刀を作りたいと歩き回っている時に、出会った砥石が活きて、

頑丈な弓矢を作り、龍を倒せるかもしれない。

初めから弓矢を作ってたら、砥石がダメで倒せなかったかもしれない。

 

 

やっぱり、

 

「何かあった時は捉え方、何か決断した時は後の行動が大事」

 

大事にしている考え方なんですが、これに尽きると思います。

捉え方と行動次第でやってきてよかったなと思えるようになります。

 

これからもこの姿勢は大事にしたいし、

英語を含め、やってきたことに自信が持てない人は、

捉え方と行動次第で前向きになれるんじゃないかなと思います。

 

 

4年間英語を勉強してきて、今思うこと、

 

大満足!最善かは知らんけど。」です。

 

 

 

 

やっぱり分かりやすく伝えるってすごく頭を使うし、難しいな!

 

というか長いな。これじゃ毎日は続かないかな。笑

時間を決めて、短く分かりやすいものを書こう。

 

ありがとうございました。